☆2011ミサ・ソレニムス-2

東日本大震災(3月11日午後2時46分)が起きたとき、金沢市内の金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」の講師として、「広報の裏ワザ教えます」「マスコミを通していかに広報するか」と題して講演とワークショップを開いていた。社会人30人ほどの参加があり、立ちながらの講演だったせいか、金沢での揺れにはまったく気づかなかった。午後3時ごろの休憩時間に、「東北でかなり大きな地震があって大変なことになっている」と別の教授が耳打ちしてくれた。それ以来、東北・仙台のテレビ局のある友人のことがずっと気になっていて、電話をしようかどうかずっと迷っていた。テレビ局は特番で忙しいだろう、また自ら被災していたら大変なことになっているだろうと思うと、お見舞いの電話などとてもする気にはなれなかった。別の東北のテレビ局の友人を介して、「彼は少し落ち着いたみたいだよ。電話してみたら。メールアドレスも通じていると」とアドバイスがあり、メールをしたのは5月1日のことだった。その後、仙台を訪ねたのは11日後の5月12日だった。

          「5年後、10年後もずっと被災者に寄り添うメディアでありたい」

 仙台市に本社があるKHB東日本放送。加藤昌宏報道制作局長と再会したのは2005年9月以来、6年ぶりだった。5階建ての社屋の屋上に鉄塔があり、当時はとても揺れたと役員室など案内いただいた。天井からボードが落ち、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。困難は揺れの後にやってきた。仙台空港に駐機してあった取材ヘリコプターは津波で流失、本社の送出装置や中継局は損傷した。東日本大地震では「地元マスメディアも被災者」ということが実感できた。金沢大学で担当しているの「ジャーナリズム論」で、加藤氏に講義をしてもらうことをお願いし、12月13日に実現した。「千年に一度」「未曽有の大震災」と称される震災、それに地元のテレビメディアはどのように関わればよいのか、今の有り様を含めて率直に話していただいた。以下要約する。
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 3月11日、この日はくしくも、テレビ朝日から「ニュージーランド地震取材本部閉鎖」の連絡があり、その14分後に大きな揺れが来た。揺れは収まったものの、余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。14時49分頃 契約している航空会社にヘリコプターの離陸を要請したが飛ばず、全体被害の取材の眼を失った。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

 社長は震災直後に社員を集めトップとして指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信であった。甚大な被害を全国に向けて発信し、中央政府を動かして一刻も早く救援を呼ぼうとう当面の方針だった。全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先した。取材は戦いでもある。精神論は3日と持たない。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビなので収録用テープの確保を最優先した。SONY工場が津波被災していて、FUJIの在庫をいち早く確保した。さらに持久戦を戦うために、ロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。その後、続々と取材の応援部隊がくる。

 戦場で戦うためには、食料補給所の充実が欠かせない。ロビーに取材用備品を並べ、応援スタッフが自由に使えるようにした。電池、防塵マスク、軍手、ペン、メモ帳、レンズクリーナー、飲料、のど飴、蜂蜜缶詰、栄養ドリンク、男女使い捨て下着、防寒着、サバイバルキットなど用意した。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。

 情報共有のための「立会い朝会議」を実施した。3月16日~4月28日までほぼ毎日。午前9時から。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。これにより社内のチームワークを固めた。民放史上最長となったL字(ライフライン)情報の放送は、アーカイブ室と社内応援が担当した。3月13日から4月29日の放送終了まで実に48日間余り、入手情報2008件、送出情報は延べ3200件余に上った。

 取材する側のメディアも被災者であり共感できる部分は理解できた。安否情報や避難所の物資不足を伝えたことや、取材終了後、記者がお茶を飲みながら被災とは関係のない四方山話をしたことは喜ばれた。真っ暗な避難所、避難誘導時に取材用バッテリーライトを点けてあげたとき、離島や孤立地域、復旧困難地域での取材なども感謝されえた。一方で、避難所や被災家屋周辺での取材で「見世物にするのか」と怒鳴られること多数回あった。耳障りの良い美談、一部の前向きの事象に偏っていないかという厳しい意見をいただいた。家族が死亡・行方不明の場合、信頼関係が構築できていないと取材を拒まれることも。取材が集中することによるトラブルが通常は多いが、今回は取材をしないことで精神的な不安を与えたこともある。広範囲であるがゆえに、取材が行き届かないのだ。

 これからの取材については、取材先が気仙沼市、南三陸町、石巻市、東松島市に偏る傾向があり、ローラー作戦を実施したいと思う。地域経済復活へ向けた活動の取材強化もポイントだと考えている。そして、3年後、5年後、10年後を視野に入れた長期戦で臨む。被災地に寄り添うメディアでありたと心がけている。

※写真・上は震災2ヵ月目の5月11日に営まれた市民の慰霊法要を取材するメディア各社(気仙沼市で)、写真・下はテレビ局の食料補給所(仙台市)

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