ことし1年、随分と能登に通った。金沢大学から能登半島の先端の珠洲市まで距離にしてざっと150㌔である。乗用車で片道2時間余り。能登通いは昨年から始まり、ことしは急増した。その理由は過日のブログを参考にしてほしい。能登で得た知識、研がれた感性、人とのコミュニケーションなどプラスの面が多々あった。その一端をブログでは「デープな能登」のシリーズで書かせてもらった。今回はその総集編を。
期待したい「持続可能な心意気」
何を隠そう私も能登の出身なので、どちらかとうと能登について語る際は概して辛口である。何しろ能登の人は勘違いをしている。民宿、居酒屋、寿司屋などどこで食べても量が多すぎる。たとえば、ブリの刺身はぶ厚い。これが5枚、6枚と皿に盛ってあるので食べきれない。もう少し薄く、量を減らしたらと主人や女将に進言すると、決まって「量が少ないと言われるほうが辛いのです」という。
今月1日から、奥能登の飲食店がオリジナルのどんぶりをメニューに出す、「能登丼(のとどん)」というキャンペーンを始めた。さっそく初日に訪れた店でブリの照り焼き丼を食した。ご覧の写真のように、ブリの照り焼きがどんぶり茶碗からはみ出ている。ブリの照り焼きを2切れ食べただけでお腹がいっぱいになった。残すのはもったいないと思い懸命に食べたが、少々苦痛に感じ、せっかくのブリの照り焼きの価値が半減した。能登の料理人は「食い倒れ」という発想を転換すべきである。いくら地産地消といっても程がある…。
肉にしてもそうだ。能登和牛がいくら良質だからといって、草鞋(わらじ)のようなステーキを出すべきではない。似たような辛い経験をしたことがある。アメリカのラスベガスのホテルで食したステーキがサンダルのような大きさ。それに付いたポテトチップスがボールに入って出てきたのには辟易した。支配人に聞くと、これがベガス流なのだとか。
実は民宿や居酒屋、寿司屋だけはない。普通の民家でもそうなのだ。年に一度、収穫祭りが夏から秋にかけてある。ヨバレといって、親戚や知人を自宅に招待してごちそうでもてなすのだが、一人前のご膳の料理の品数、量が途方もなく多い。ご膳についた周囲の客を見渡すと、箸をそこそこにしかつけていない人が多い。残しているのである。結果、祭りの翌日は大量の残飯が各家庭から排出されることになる。
能登人の心意気は有り余るサービス精神と表現することができるかもしれない。しかし、これでは営業上でもコスト的に辛く、家計で言えば、交際費支出が多すぎて無理している。この時代、「そこそこ」のサービス精神に切り替えるほうよいのではないか。無理せず、持続可能な心意気の方がこちらも楽なのである。
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